ジダンの頭突き騒動は、更に問題が厄介な方向に発展しそうだ。英紙デーリー・スターは15日、イタリア代表DFマルコ・マテラッツィ(32)に対し、同国のプローディ首相が自らのSP(専属ボディーガード)をつけることを検討していると報じた。
発言内容について、アルジェリア系でイスラム教徒であるジダンに対する差別的な表現である「テロリスト」も口にしたのではないか、という声も根強い。
フランスメディアには、読唇術の専門家が強く「テロリスト」を主張していることを根拠に政治的、宗教的、民族的な問題に発展することをジダンが危ぐして隠しているのでは、という意見もある。その場合は、より深刻な脅迫による生命の危機につながる可能性もあるという。
ある意味、自業自得ともいえよう。ラテン系の場合、相手を怒らせてリズムを狂わせる為に、このような挑発的な暴言を意図的に使う場合がある。
リスクを犯してW杯優勝・世界一という栄誉を勝ち取ったのだから、その報いを覚悟するのもまた当然であろう。暴力というのは、殴ったり、蹴ったり、頭突きを入れたりだけではないのだ。言葉の暴力というのがあるのを忘れてはいけない。
皆さん、朝鮮や中国の人達が、いまだに戦争当時の事に対して、怨念を抱いていたり、在日朝鮮人の人達が《差別・虐め》等を問題にしてるのを見たり聞いたりして、どう思ってるかな?
あれはね、≪ やった側は忘れても、やられた側は忘れない ≫という事なんだよ。それを、もう済んだ事は忘れろ、いつまでもグズグズ言うのは男らしくない等と、≪やった側が言ったら、怨念が増幅される≫ んだよ。
同じサッカーファミリーなのに、相手の身体を傷つけるような暴力でないなら構わないのか。勝利の為ならば手段を選ばずでは、やがて相応の不幸な結果が訪れるのではないだろうか。
言葉の暴力によって≪精神を傷つける≫のは、許されて良いのだろうか。言葉に対して言葉で対応するのが正しいといえるのだろうか。
わが国では《口は災いの元》という諺がある。その一方で、《声の大きい者・口達者な者》が勝つという傾向があり、その際の《言葉の暴力》が野放しになる場合が目立つ。
ゲーム中に、頭突きという暴力で対応したジダンは、確かに間違っていたといえるのだが、『言葉の暴力』を使った「マテラッツイ」は、自分の発言の重みと責任を自覚するべきなんだ。もし、本当に『テロリスト』と発言したならば、イスラム教徒のテロリストによって処刑される危険性を考慮してなかったとしたら、あまりにも軽率と言わざるを得ない。
サッカーの才能と能力の差を『言葉の暴力で挑発して』埋めるのでは、サッカーファミリの一員として恥ずかしい事である。

